P--935 P--936 P--937 #1口伝鈔 口伝鈔 本願寺鸞聖人如信上人に対しまし〜ており〜の御物語の条々 #21 (1) 一 あるときのおほせに のたまはく 黒谷聖人[源空] 浄土真宗御興行 さかりなりしとき 上一人よりはし めて 偏執のやから 一天にみてり これによりて かの立宗の義を 破せられんかために 禁中{時代不審もし土御 門の院の御宇歟} にして 七日の 御逆修を はしめをこなはるゝ ついてに 安居院の法印聖覚を 唱導として  聖道の諸宗のほかに 別して 浄土宗あるへからさるよし これをまふしみたらるへきよし 勅請あり  しかりといへとも 勅喚に応しなから 師範空聖人の本懐 さへきりて 覚悟のあひた まふしみたらる ゝに をよはす あまさへ 聖道のほかに 浄土の一宗興して 凡夫直入の大益 あるへきよしを つい てをもて ことに申し たてられけり こゝに 公廷にしてその沙汰あるよし 聖人{源空}きこしめすについ て もしこのとき まふしやふられなは 浄土の宗義 なむそ立せむや よりて 安居院の坊へ おほせ つかはされんとす たれひとたるへきそやのよし その仁を 内々えらはる ときに 善信御房 その仁 たるへきよし 聖人さしまふさる 同朋のなかに また もともしかるへきよし 同心に 挙しまふされ P--938 けり そのとき 上人{善信} かたく 御辞退 再三にをよふ しかれとも 貴命のかれかたきに よりて  使節として 上人[善信] 安居院の房へ むかはしめたまはんとす ときに 縡もとも 重事なり すへか らく 人を あひ そへらるへきよし まふさしめたまふ もとも しかるへしとて 西意善綽御房を  さしそへらる 両人安居院の房に いたりて 案内せらる おりふし沐浴と[云々] 御つかひ たれひとそ やと とはる 善信御房 入来ありと[云々] そのとき おほきに おとろきて この人の 御使たること 邂逅なり おほろけの ことに あらしとて いそき 温室より いてゝ 対面 かみくたんの 子細を つふさに 聖人[源空]の おほせとて 演説 法印まふされて いはく このこと 年来の 御宿念たり  聖覚いかてか 疎簡を存せむ たとひ 勅定たりと いふとも 師範の命を やふるへからす よりて  おほせを かうふらさるさきに 聖道浄土の 二門を 混乱せす あまさへ 浄土の宗義を まふしたて はむへりき これしかしなから 王命よりも 師孝ををもくするか ゆへなり 御こゝろ やすかるへき よし まふさしめ たまふへしと[云々] このあひたの 一座の委曲 つふさにするに いとまあらす す なはち 上人[善信] 御帰参ありて 公廷一座の 唱導として 法印重説の むねを 聖人[源空]の 御前に て 一言も おとし ましまさす 分明に 又一座宣説し まふさる そのとき さしそへらるゝ 善綽 御房に 対して もし 紕繆ありやと 聖人[源空] おほせらるる ところに 善綽御房 まふされて い はく 西意二座の説法 聴聞つかうまつりをはりぬ 言語のをよふところに あらすと[云々] 三百八十余 P--939 人の 御門侶のなかに その上足といひ その器用といひ すてに 清撰にあたりて 使節をつとめ ま しますところに 西意また証明の 発言にをよふ おそらくは 多宝証明の 往事にあひおなしき もの をや この事 大師聖人の御とき 随分の面目たりき 説道も 涯分 いにしへに はつへからすと い へとも 人師戒師 停止すへきよし 聖人の御前にして 誓言発願をはりき これによりて 檀越をへつ らはす その請におもむかすと[云々] そのころ 七条の源三中務丞か遺孫 次郎入道浄信 土木の大功を をへて 一宇の伽藍を 造立して 供養のために 唱導におもむき ましますへきよしを &M003819;請し まふ すといへとも 上人{善信} つゐにもて 固辞しおほせられて かみくたむの おもむきを かたりおほせら る そのとき 上人[善信] 権者にましますと いへとも 濁乱の凡夫に同して 不浄説法のとか をもき ことを しめしましますものなり #22 (2) 一 光明名号の因縁といふ事 十方衆生のなかに 浄土教を 信受する機あり 信受せさる機あり いかむとならは 大経のなかに と くかことく 過去の宿善 あつきものは 今生に この教にあふて まさに信楽す 宿福なきものは こ の教にあふといへとも 念持せされは またあはさるかことし 欲知過去因の 文のことく 今生のあり さまにて 宿善の有無 あきらかに しりぬへし しかるに 宿善開発する機の しるしには 善知識に あふて 開悟せらるゝとき 一念疑惑を 生せさるなり その疑惑を 生せさることは 光明の縁に あ P--940 ふゆへなり もし 光明の縁 もよをさすは 報土往生の真因たる 名号の因を うへからす いふこゝ ろは 十方世界を 照曜する 無礙光遍照の 明朗なるに てらされて 無明沈没の煩惑 漸々にとらけ て 涅槃の真因たる 信心の根芽 わつかに きさすとき 報土得生の 定聚のくらゐに住す すなわち このくらゐを 光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨とらとけり また 光明寺の御釈には 以光明 名号 摂化十方 但使信心求念とも のたまへり しかれは 往生の信心の さたまることは われらか 智分にあらす 光明の縁に もよをし そたてられて 名号信知の 報土の因をうと しるへしとなり  これを 他力といふなり #23 (3) 一 無礙の光曜によりて無明の闇夜はるゝ事 本願寺の上人[親鸞] あるとき 門弟にしめして のたまはく つねに 人のしるところ 夜あけて 日輪 はいつや 日輪やいてゝ 夜あくや 両篇 なんたち いかむかしると{云々} うちまかせて 人みなおもへ らく 夜あけてのち 日いつと こたへ申 上人のたまはく しからさるなりと 日いてゝ まさに夜あ くる ものなり そのゆへは 日輪 まさに 須弥の半腹を 行度するとき 他州のひかり ちかつくに ついて この南州 あきらかになれは 日いてゝ 夜はあくと いふなり これはこれたとへなり 無礙 光の日輪 照触せさるときは 永々昏闇の無明の夜 あけす しかるに いま 宿善ときいたりて 不断 難思の日輪 貪瞋の半腹に 行度するとき 無明やうやく 闇はれて 信心たちまちに あきらかなり  P--941 しかりといへとも 貪瞋の雲霧 かりにおほふによりて 炎王清浄等の 日光あらはれす これによりて  煩悩障眼雖不能見とも釈し 已能雖破無明闇とら のたまへり 日輪の他力 いたらさるほとは われと  無明を破すと いふこと あるへからす 無明を破せすは また出離その期 あるへからす 他力をもて 無明を 破するかゆへに 日いてゝのち 夜あくといふなり これさきの 光明名号の義に こゝろおな し いへとも 自力他力を 分別せられんために 法譬を合して おほせこと ありきと[云々] #24 (4) 一 善悪二業の事 上人[親鸞] おほせに のたまはく 某は またく 善もほしからす 又 悪もおそれなし 善のほしから さるゆへは 弥陀の本願を 信受する まされる 善なきかゆへに 悪のおそれなきといふは 弥陀の本 願を さまたくる 悪なきかゆへに しかるに 世の人 みなおもへらく 善根を 具足せすむは たと ひ 念仏すと いふとも 往生すへからすと また たとひ 念仏すといふとも 悪業深重ならは 往生 すへからすと このおもひ ともに はなはた しかるへからす もし 悪業を こゝろにまかせて  とゝめ 善根を おもひのまゝに そなへて 生死を出離し 浄土に 往生すへくは あなかちに 本願 を 信知せすとも なにの不足かあらん そのこと いつれも こゝろに まかせさるによりて 悪業を は おそれなから すなわちおこし 善根をは あらませと うること あたはさる 凡夫なり かゝる  あさましき 三毒具足の悪機として われと 出離に みちたえたる機を摂取したまはむための 五劫思 P--942 惟の 本願なるかゆへに たゝあふきて 仏智を信受するに しかす しかるに 善機の念仏するをは  決定往生とおもひ 悪人の念仏するをは 往生不定とうたかふ 本願の規模 こゝに失し 自身の 悪機 たることを しらさるになる おほよす 凡夫引接の 無縁の慈悲をもて 修因感果したまへる 別願所 成の 報仏報土へ 五乗ひとしく いることは 諸仏 いまた おこささる 超世不思議の 願なれは  たとひ 読誦大乗 解第一義の 善機たりと いふとも をのれか 生得の善 はかりをもて その土に  往生すること かなふへからす また 悪業は もとより もろ〜の 仏法にすてらるゝ ところなれ は 悪機 また 悪をつのりとして その土へ のそむへきにあらす しかれは 機にむまれつきたる  善悪のふたつ 報土往生の 得ともならす 失ともならさる条 勿論なり されは この善悪の機のうへ に たもつところの 弥陀の仏智を つのりと せすよりほかは 凡夫いかてか 往生の得分あるへきや  されはこそ 悪もおそろしからすとはいへ こゝをもて 光明寺の大師 言弘願者 如大経説 一切善悪  凡夫得生者 莫不皆乗 阿弥陀仏 大願業力 為増上縁也と のたまへり 文のこゝろは 弘願といふは  大経の説のことし 一切善悪凡夫の むまるゝことをうるは みな 阿弥陀仏の 大願業力にのりて 増 上縁と せさるはなしとなり されは 宿善あつきひとは 今生に 善をこのみ 悪をおそる 宿悪をも きものは 今生に 悪をこのみ 善にうとし たゝ 善悪のふたつをは 過去の因にまかせ 往生の大益 をは 如来の他力に まかせて かつて 機のよきあしきに 目をかけて 往生の得否を さたむへから P--943 すとなり これによりて あるときの おほせにのたまはく なんたち 念仏するより なを 往生に  たやすき みちあり これをさつくへしと 人を 千人殺害したらは やすく 往生すへし をの〜  このをしへに したかへ いかんと ときに ある一人 まふして いはく 某にをいては 千人まては  おもひよらす 一人たりと いふとも 殺害しつへき 心ちせすと[云々] 上人 かさねて のたまはく  なんち わかをしへを 日比そむかさるうへは いま をしふる ところにをいて さためて うたかひ を なささる歟 しかるに 一人なりとも 殺害しつへき こゝちせすといふは 過去に そのたねなき によりてなり もし 過去に そのたねあらは たとひ 殺生罪を をかすへからす をかさは すなわ ち 往生をとくへからすと いましむと いふとも たねにもよをされて かならす 殺罪をつくるへき なり 善悪のふたつ 宿因の はからひとして 現果を 感するところ也 しかれは またく 往生にを いては 善もたすけとならす 悪もさはりとならすと いふこと これをもて 准知すへし #25 (5) 一 自力の修善はたくはへかたく他力の仏智は護念の益をもてたくはへらるゝ事 たとひ 万行諸善の 法財を 修したくはふと いふとも 進道の資糧と なるへからす ゆへは  六賊知聞して 侵奪するかゆへに 念仏にをいては すてに 行者の善にあらす 行者の行にあら すとら 釈せらるれは 凡夫自力の 善にあらす またう 弥陀の 仏智なるかゆへに 諸仏護念の益 によりて 六賊これををかすに あたはさるかゆへに 出離の資糧となり 報土の正因と なる也 しる P--944 へし #26 (6) 一 弟子同行をあらそひ本尊聖教をうはひとることしかるへからさるよしの事 常陸の国 新堤の信楽坊 聖人{親鸞}の 御前にて 法文の義理ゆへに おほせを もちゐまふささるにより て 突鼻に あつかりて 本国に 下向のきさみ 御弟子蓮位房 まふされて いはく 信楽坊の 御門 弟の儀を はなれて 下国のうへは あつけ わたさるゝところの 本尊を めしかへさるへくや さふ らふらんと なかんつくに 釈親巒と 外題のしたに あそはされたる 聖教おほし 御門下を はなれ  たてまつるうへは さためて 仰崇の儀 なからん歟と[云々] 聖人の おほせにいはく 本尊聖教を と りかへすこと はなはた しかるへからさることなり そのゆへは 親鸞は 弟子一人も もたす なに ことを をしへて 弟子といふへきそや みな 如来の 御弟子なれは みなともに 同行なり 念仏往 生の 信心を うることは 釈迦弥陀二尊の 御方便として 発起すと みえたれは またく 親鸞か  さつけたるにあらす 当世 たかひに 違逆のとき 本尊聖教を とりかへし つくるところの 房号を  とりかへし 信心を とりかへすなむと いふこと 国中に繁昌と[云々] 返々 しかるへからす 本尊聖 教は 衆生利益の 方便なれは 親鸞か むつひをすてゝ 他の門室に いるといふとも わたくしに  自専すへからす 如来の教法は 総して 流通物なれは也 しかるに 親鸞か名字の のりたるを 法師 にくけれは 袈裟さへの風情に いとひ おもふに よりて たとひ かの聖教を 山野に すつといふ P--945 とも そのところの 有情群類 かの聖教に すくはれて こと〜く その益をうへし しからは 衆 生利益の本懐 そのとき 満足すへし 凡夫の 執するところの 財宝のことくに とりかへすといふ義  あるへからさる也 よく〜 こゝろうへしと おほせありき #27 (7) 一 凡夫往生の事 おほよす 凡夫の 報土にいることをは 諸宗ゆるさゝる ところ也 しかるに 浄土真宗にをいて 善 導家の 御こゝろ 安養浄土をは 報仏報土とさため いるところの機をは さかりに 凡夫と談す こ のこと 性相のみゝを おとろかす こと也 されは かの性相に 封せられて ひとのこゝろ おほく  まよひて この義勢に をきて うたかひを いたく そのうたかひの きさすところは かならすしも  弥陀超世の悲願を さること あらしと うたかひ たてまつるまては なけれとも わか身の分を 卑 下して そのことはりを わきまへしりて 聖道門よりは 凡夫報土に いるへからさる 道理を うか へて その比量をもて いまの真宗を うたかふまての 人は まれなれとも 聖道の性相 世に流布す るを なにとなく 耳にふれならひ たるゆへ歟 おほく これにふせかれて 真宗別途の 他力を う たかふこと かつは 無明に 痴惑せられたる ゆへなり かつは 明師にあはさるか いたすところな り そのゆへは 浄土宗のこゝろ もと凡夫のためにして 聖人のために あらすと[云々] しかれは 貪 欲もふかく 瞋恚もたけく 愚痴も さかりならんに つけても 今度の 順次の往生は 仏語に 虚妄 P--946 なけれは いよ〜 必定とおもふへし あやまて わかこゝろの 三毒も いたく 興盛ならす 善心 しきりに おこらは 往生不定の おもひも あるへし そのゆへは 凡夫のための願と 仏説分明なり  しかるに わかこゝろ 凡夫けもなくは さては われ凡夫にあらねは この願に もれやせむと おも ふへきに よりてなり しかるに われらか心 すてに 貪瞋痴の三毒 みなおなしく 具足す これか ためとて おこさるゝ 願なれは 往生その機として 必定なるへしとなり かくこゝろえつれは こゝ ろの わろきにつけても 機の卑劣なるにつけても 往生せすは あるへからさる 道理文証 勿論なり  いつかたよりか 凡夫の往生 もれて むなしからんや しかれは すなわち 五劫の思惟も 兆載の修 行も たゝ親鸞一人か ためなりと おほせことありき わたくしにいはく これをもて かれを案する に この条 祖師聖人の 御ことに かきるへからす 末世のわれら みな凡夫たらんうへは またもて  往生おなしかるへしと しるへし #28 (8) 一 一切経御校合の事 西明寺の禅門の父 修理亮時氏 政徳を もはらにせしころ 一切経を 書写せられき これを 校合の ために 智者学生たらん僧を 崛請あるへしとて 武藤左衛門入道{不知実名} ならひに 屋戸やの入道{不知実名}  両大名に おほせつけて たつね あなくられけるとき ことの縁ありて 聖人を たつね いたしたて まつりき{もし常陸の国笠間郡稲田郷に御経廻の比歟} 聖人 その請に応し まし〜て 一切経 御校合ありき その最中 副将 P--947 軍 連々昵近したてまつるに あるとき 盃酌のみきりにして 種々の珍物を とゝのへて 諸大名 面 々 数献の沙汰にをよふ 聖人 別して 勇猛精進の 僧の威儀を たゝしくし ましますこと なけれ は たゝ世俗の 入道俗人等に おなしき 御振舞也 よて 魚鳥の肉味等をも きこしめさるること  御はゝかりなし ときに 鱠を 御前に進す これを きこしめさるゝこと つねのことし 袈裟を御着 用ありなからまいる とき 西明寺の禅門 ときに 開寿殿とて 九歳 さしよりて 聖人の御耳に 密 談せられて いはく あの入道とも 面々魚食のときは 袈裟をぬきて これを食す 善信御房 いかな れは 袈裟を 御着用ありなから 食しましますそや これ不審と[云々] 聖人 おほせられていはく あの 入道達は つねに これを もちゐるについて これを食するときは 袈裟を ぬくへきことゝ 覚悟の あひた ぬきて これを 食する歟 善信は かくのこときの食物 邂逅なれは おほけて いそきたへ むと するにつきて 忘却して これをぬかすと[云々] 開寿殿 またまふされていはく この御答 御偽 言なり さためて ふかき 御所存ある歟 開寿幼稚なれはとて 御蔑如にこそとて のきぬ また あ るとき さきのことくに 袈裟を 御着服ありなから 御魚食あり また 開寿殿 さきのことくに た つねまふさる 聖人 また御忘却と こたへまします そのとき 開寿殿 さのみ 御廃忘あるへからす これしかしなから 幼少の愚意 深義を わきまへ しるへからさるによりて 御所存を のへられ さ るものなり まけて たゝ実義を 述成あるへしと 再三こさかしく のそみまふされけり そのとき  P--948 聖人 のかれかたくして 幼童に対して しめしまし〜ていはく まれに 人身をうけて 生命をほろ ほし 肉味を貪する事 はなはた しかるへからさることなり されは 如来の制誡にも このこと こ とにさかむなり しかれとも 末法濁世の 今時の衆生 無戒のときなれは たもつものもなく 破する ものもなし これによりて 剃髪染衣の そのすかた たゝ世俗の群類に こゝろおなしきかゆへに こ れらを 食すとても 食する程ならは かの生類をして 解脱せしむる やうにこそ ありたくさふらへ  しかるに われ名字を 釈氏にかるといへとも こゝろ 俗塵にそみて 智もなく 徳もなし なにゝよ りてか かの有情を すくふへきや これによりて 袈裟は これ 三世の諸仏 解脱幢相の霊服なり  これを着用しなから かれを食せは 袈裟の徳用をもて 済生利物の 願念をや はたすと存して これ を 着しなから かれを食する物なり 冥衆の照覧を あふきて 人倫の所見を はゝからさること か つは 無慙無愧の はなはたしきににたり しかれとも 所存かくのことしと[云々] このとき 開寿との  幼少の身として 感気おもてにあらはれ 随喜もともふかし 一天四海を おさむへき 棟梁 その器用 は おさなくより やうあるものなりと おほせことありき   [康永三歳[甲申]孟夏上旬[七日]此巻書写之訖]                          [桑門宗昭]{七十五} P--949 #29 (9) 一 あるとき 鸞上人 黒谷の聖人の禅房へ 御参ありけるに 修行者一人 御ともの下部に 案内していは く 京中に 八宗兼学の 名誉まします 智恵第一の 聖人の貴坊や しらせたまへるといふ この様を  御ともの下部 御車のうちへまふす 鸞上人のたまはく 智恵第一の 聖人の御房と たつぬるは もし 源空聖人の 御事か しからは われこそ たゝいま かの御坊へ 参する身にて はむへれ いかむ  修行者 申ていはく そのことにさふらふ 源空聖人の 御ことを たつね申なりと 鸞上人のたまはく  さらは 先達すへし この車に のらるへしと 修行者 おほきに 辞し申て そのおそれあり かなふ へからすと[云々] 鸞上人のたまはく 求法のためならは あなかちに 隔心あるへからす 釈門のむつひ  なにか くるしかるへき たゝのらるへしと 再三辞退 まふすといへとも 御とものものに 修行者  かくるところの かこ負を かくへしと 御下知ありて 御車に ひきのせらる しかうして かの御坊 に 御参ありて 空聖人の御前にて 鸞上人 鎮西のものと 申て 修行者一人 求法のためとて  御房をたつね申て 侍りつるを 路次より あひともなひて まいりてさふらふ めさるへきをやと[云々]  空聖人 こなたへ 招請あるへしと おほせあり よりて 鸞上人 かの修行者を 御引導ありて 御前 へめさる そのとき 空聖人 かの修行者を にらみましますに 修行者 また聖人を にらみかへし  たてまつる かくて やゝひさしく たかひに 言説なし しはらくありて 空聖人 おほせられて の たまはく 御坊は いつこのひとそ またなにの用ありて きたれるそやと 修行者 申ていはく われ P--950 はこれ 鎮西のものなり 求法のために 花洛にのほる 仍推参つかまつる ものなりと そのとき 聖 人 求法とは いつれの法を もとむるそやと 修行者申ていはく 念仏の法を もとむと 聖人のたま はく 念仏は 唐土の念仏か 日本の念仏かと 修行者 しはらく 停滞す しかれとも きと案して  唐土の念仏を もとむるなりと[云々] 聖人のたまはく さては 善導和尚の 御弟子にこそ あるなれと  そのとき 修行者 ふところより つま硯を とりいたして 二字をかきて さゝく 鎮西の聖光坊 こ れなり この聖光ひしり 鎮西にして おもへらく みやこに 世もて 智恵第一と称する 聖人をはす なり なにことかは 侍るへき われすみやかに 上洛して かの聖人と問答すへし そのとき もし智 恵すくれて われにかさまは われまさに 弟子となるへし また問答にかたは かれを 弟子とすへし と しかるに この慢心を 空聖人 権者として 御覧せられけれは いまのことくに 御問答ありける にや かのひしり わか弟子と すへき事 橋たてゝも をよひかたかりけりと 慢幢たちまちに くた けけれは 師資の礼をなして たちところに 二字をさゝけけり 両三年ののち あるとき かこ負かき おいて 聖光坊 聖人の御前へ まいりて 本国恋慕の こゝろさし あるによりて 鎮西下向つかまつ るへし いとま たまはるへしと申す すなわち 御前をまかりたちて 出門す 聖人のたまはく あた ら修学者か もととりを きらてゆくはとよと その御こゑ はるかに みゝにいりけるにや たちかへ りて 申ていはく 聖光は 出家得度して としひさし しかるに 本鳥をきらぬよし おほせを かう P--951 ふる もとも不審 このおほせ 耳にとまるによりて みちをゆくに あたはす ことの次第 うけたま はり わきまへんかために かへりまいれりと[云々] そのとき 聖人のたまはく 法師には みつのもと とりあり いはゆる 勝他 利養 名聞 これなり この三箇年のあひた 源空か のふるところの 法 文を しるしあつめて 随身す 本国にくたりて 人をしえたけむとす これ勝他にあらすや それにつ けて よき学生と いはれんとおもふ これ名聞をねかふところなり これによりて 檀越をのそむこと  所詮利養のためなり このみつのもとゝりを そりすてすは 法師といひかたし 仍さ申つるなりと[云々] そのとき 聖光房 改悔の色を あらはして 負のそこより おさむるところの 抄物ともを とりいて ゝ みなやきすてて また いとまを 申ていてぬ しかれとも その余残 ありけるにや つゐに お ほせを さしをきて 口伝をそむきたる 諸行往生の 自義を 骨張して 自障障他する事 祖師の遺訓 をわすれ 諸天の冥慮を はゝからさるにやと おほゆ かなしむへし おそるへし しかれは かの聖 光坊は 最初に 鸞上人の 御引導によりて 黒谷の門下に のそめる人なり 末学これをしるへし #210 (10) 一 十八の願につきたる御釈の事 彼仏今現在成仏等 この御釈に 世流布の本には 在世とあり しかるに 黒谷本願寺 両師ともに こ の世の字を 略してひかれ ひかれたり わたくしに そのゆへを案するに 略せらるゝ条 もとも そ のゆへある歟 まつ 大乗同性経にいはく 浄土中成仏 悉是報身 穢土中成仏悉是化身[文] この文を依 P--952 憑として 大師報身報土の義を 成せらるゝに この世の字を をきては すこふる 義理浅近なるへし と おほしめさるゝ歟 そのゆへは 浄土中成仏の 弥陀如来につきて いま世にまし〜てと この文 を訓せは いますこし 義理いはれさる歟 極楽世界とも 釈せらるゝうへは 世の字 いかてか 報身 報土の義に のくへきと おほゆる篇も あれとも されは それも 自宗にをきて 浅近のかたを 釈 せらるゝときの 一往の義なり おほよす 諸宗にをきて おほくは この字を 浅近のとき もちゐつ けたり まつ 倶舎論の性相{世間品}に 安立器世間 風輪最居下とら判せり 器世間を 建立するとき こ の字を もちゐる条 分明なり 世親菩薩の所造 もとも ゆへあるへきをや 勿論なり しかるに わ か真宗にいたりては 善導和尚の 御こゝろによるに すてに 報身報土の 廃立をもて規模とす しか れは 観彼世界相 勝過三界道の 論文をもて おもふに 三界の道に 勝過せる 報土にして 正覚を 成する 弥陀如来のことを いふとき 世間浅近の事に もちゐならひたる 世の字をもて いかてか  義を成せらるへきや この道理によりて いまの一字を 略せらるゝかと みえたり されは 彼仏今現 在成仏とつゝけて これを訓するに かの仏いま現在して 成仏したまへりと 訓すれは はるかに き ゝよきなり 義理といひ 文点といひ この一字 もともあまれる歟 この道理をもて 両祖の御相伝を  推験して 八宗兼学の了然上人{ことに三論宗}に いまの料簡を 談話せしに 浄土真宗にをきて この一義 相 伝なしといへとも この料簡もとも同すへしと[云々] P--953 #211 (11) 一 助業をなをかたわらにしまします事 鸞聖人 東国に 御経廻のとき 御風気とて 三日三夜 ひきかつきて 水漿不通し ましますことあり き つねのときのことく 御腰膝を うたせらるゝ こともなし 御煎物なと いふこともなし 御看病 の人を ちかくよせらるゝ 事もなし 三箇日と 申すとき 噫いまは さてあらんと おほせことあり て 御起居御平復 もとのことし そのとき 恵信御房{男女六人の君達の御母儀} たつねまふされていはく 御風気と て 両三日 御寝のところに いまはさてあらんと おほせことあること なにことそやと 聖人 しめ しまし〜て のたまはく われこの三箇年のあひた 浄土の三部経を よむ事 をこたらす おなしく は 千部よまはやと おもひて これをはしむるところに またおもふやう 自信教人信 難中転更難と  みえたれは みつからも信し ひとををしへても 信せしむるほかは なにのつとめか あらんに この 三部経の 部数をつむこと われなから こころえられすと おもひなりて このことを よく〜 案 しさためむ料に そのあひたは ひきかつきて ふしぬ つねのやまひに あらさるほとに いまはさて あらんと いひつるなりと おほせことありき わたくしにいはく つら〜 この事を 案するに ひ との夢想の つけのことく 観音の垂迹として 一向専念の一義を 御弘通あること 掲焉なり #212 (12) 一 聖人本地観音の事 下野国 さぬきといふところにて 恵信御房の 御夢想にいはく 堂供養すると おほしきところあり  P--954 試楽ゆゝしく 厳重にとりをこなへる みきりなり こゝに 虚空に 神社の鳥居のやうなる すかたに て 木をよこたへたり それに 絵像の本尊 二鋪かゝりたり 一鋪は 形体ましまさす たゝ金色の  光明のみなり いま一鋪は たゝしく その尊形あらはれまします その形体ましまささる 本尊を 人 ありて また人に あれはなに仏にて ましますそやと問 ひとこたへていはく あれこそ 大勢至菩薩 にて ましませ すなわち 源空聖人の 御ことなりと[云々] また問ていはく いま一鋪の尊形 あらはれ たまふを あれは又なに仏そやと 人こたへていはく あれは大悲観世音菩薩にて ましますなり あれ こそ 善信御房にて わたらせたまへと申と おほえて 夢さめをはりぬと[云々] この事を 聖人にかた り 申さるゝところに そのことなり 大勢至菩薩は 智恵をつかさとり まします菩薩なり すなわち  智恵は光明と あらはるゝによりて ひかりはかりにて その形体は ましまさゝるなり 先師源空聖人  勢至菩薩の化身に ましますといふこと 世もて人のくちにありと おほせことありき 鸞聖人の 御本 地の様は 御ぬしに申さむ事 わか身としては はゝかりあれは 申いたすに をよはす かの夢想のの ちは 心中に 渇仰のおもひ ふかくして 年月をゝくるはかりなり すてに 御帰京ありて 御入滅の よし うけ給はるについて わかちゝは かゝる権者にて まし〜けると しりたてまつられんかため に しるし申なりとて 越後の国府より とゝめをき申さるゝ 恵信御房の御文 弘長三年春の比 御む すめ覚信御房へ 進せらる わたくしにいはく 源空聖人 勢至菩薩の化現として 本師弥陀の教文を  P--955 和国に弘興しまします 親巒上人 観世音菩薩の垂迹として ともにおなしく 無礙光如来の智炬を 本 朝にかゝやかさむために 師弟となりて 口決相承し ましますこと あきらかなり あふくへし たう とむへし #213 (13) 一 蓮位房{聖人常随の御門弟真宗稽古の学者俗姓源三位頼政卿順孫}夢想の記 建長八歳{丙辰} 二月九日の夜寅時 釈蓮位夢に 聖徳太子の勅命を かうふる 皇太子の尊容を 示現し て 釈親鸞法師に むかはしめまし〜て 文を誦して 親鸞聖人を 敬礼しまします その告命の文に のたまはく 敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也[文] この文の こゝろは 大慈阿弥陀仏を 敬礼したてまつるなり 妙教流通のために 来生せるものなり 五濁悪時 悪世界の なかにして 決定して すなわち無上覚を えししめたるなりといへり 蓮位 ことに皇太子 を 恭敬し尊重し たてまつるとおほえて ゆめさめて すなわち この文を かきをはりぬ わたくし にいはく この夢想の記を ひらくに 祖師聖人 あるひは 観音の垂迹とあらはれ あるひは 本師弥 陀の来現と しめしまします事 あきらかなり 弥陀観音 一体異名 ともに相違あるへからす しかれ は かの御相承 その述義を 口決の末流 他にことなるへき条 傍若無人と いひつへし しるへし #214 (14) 一 体失不体失の往生の事 上人[親巒] のたまはく 先師聖人[源空]の御とき はかりなき 法文諍論のことありき 善信は 念仏往生 P--956 の機は 体失せすして 往生をとくといふ 小坂の善恵房[証空]は 体失してこそ 往生はとくれと[云々]  この相論なり ここに 同朋のなかに 勝劣を分別せむかために あまた 大師聖人[源空]の 御前に参し て 申されていはく 善信御房と 善恵御房と 法文諍論のこと はむへりとて かみくたむの おもむ きを 一一にのへ申さるゝところに 大師聖人{源空}の おほせにのたまはく 善信房の 体失せすして往生 すと たてらるゝ条は やかてさそと 御証判あり 善恵房の 体失してこそ 往生はとくれと たてら るゝも またやかてさそと おほせあり これによりて 両方の是非 わきまへ かたきあひた そのむ ねを 衆中より かさねて たつね申ところに おほせにのたまはく 善恵房の 体失して往生するよし  のふるは 諸行往生の機なれは也 善信房の 体失せすして 往生するよし 申さるゝは 念仏往生の機 なれは也 如来教法元無二なれとも 正為衆生機不同なれは わか根機にまかせて 領解する条 宿善の 厚薄によるなり 念仏往生は 仏の本願なり 諸行往生は 本願にあらす 念仏往生には 臨終の善悪を 沙汰せす 至心信楽の 帰命の一心 他力よりさたまるとき 即得往生住不退転の道理を 善知識にあふ て 聞持する 平生のきさみに 治定するあひた この穢体 亡失せすといへとも 業事成弁すれは 体 失せすして往生すと いはるゝ歟 本願の文 あきらかなり かれをみるへし つきに 諸行往生の機は 臨終を期し 来迎をまちえすしては 胎生辺地まても むまるへからす このゆへに この穢体亡失する ときならては その期するところ なきによりて そのむねをのふる歟 第十九の願に みえたり 勝劣 P--957 の一段にをきては 念仏往生は 本願なるについて あまねく十方衆生にわたる 諸行往生は 非本願な るによりて 定散の機にかきる 本願念仏の機の 不体失往生と 非本願諸行往生の機の 体失往生と  殿最懸隔にあらすや いつれも 文釈ことはにさきたちて 歴然なり #215 (15) 一 真宗所立の報身如来諸宗通途の三身を開出する事 弥陀如来を 報身如来と さたむること 自他宗をいはす 古来の義勢 ことふりむたり されは荊渓は  諸教所讃多在弥陀とものへ 檀那院の覚運和尚は また久遠実成弥陀仏 永異諸経之所説と 釈せらる  しかのみならす わか朝の先哲は しはらくさしをく 宗師{異朝の善導大師}の御釈に のたまはく 上従海徳初際 如来 乃至今時釈迦諸仏 皆乗弘誓 悲智双行と等釈せらる しかれは 海徳仏より 本師釈尊にいたる まて 番番出世の諸仏 弥陀の弘誓に乗して 自利利他したまへるむね 顕然なり 覚運和尚の釈義 釈 尊も 久遠正覚の弥陀そと あらはさるゝうへは いまの和尚の御釈に えあはすれは 最初海徳以来の 仏仏も みな久遠正覚の弥陀の 化身たる条 道理文証 必然なり 一字一言 加減すへからす ひとつ 経法のことくすへしと のへまします 光明寺のいまの御釈は もはら仏経に准するうへは 自宗の正依 経たるへし 傍依の経に またあまたの証説あり 楞伽経にのたまはく 十方諸刹土 衆生菩薩中 所有 法報身 化身及変化 皆従無量寿 極楽界中出[文]ととけり また般舟経にのたまはく 三世諸仏 念弥陀 三昧 成等正覚ともとけり 諸仏自利利他の願行 弥陀をもて あるしとして 分身遣化の 利生方便を P--958 めくらすこと掲焉し これによりて 久遠実成の弥陀をもて 報身如来の 本体とさためて これより応 迹をたるゝ諸仏通総の 法報応等の三身は みな弥陀の化用たりと いふことを しるへきものなり し かれは 報身といふ名言は 久遠実成の 弥陀に属して 常住法身の 体たるへし 通総の三身は かれ より ひらきいたすところの 浅近の機に おもむく所の作用なり されは 聖道難行に たへさる機を  如来出世の本意に あらされとも 易行易修なるところを とりところとして いまの浄土教の 念仏三 昧をは 衆機にわたして すゝむるそと みなひとおもへる歟 いまの黒谷の 大勢至菩薩化現の 聖人 より 代々血脈相承の 正義にをきては しかむはあらす 海徳仏よりこのかた 釈尊まての説教 出世 の本意 久遠実成 弥陀のたちとより 法蔵正覚の 浄土教のおこるを はしめとして 衆生済度の 方 軌とさためて この浄土の機法 とゝのほらさるほと しはらく 在世の権機に対して 方便の教として 五時の教を ときたまへりと しるへし たとへは 月まつほとの 手すさみの風情なり いはゆる 三 経の説時をいふに 大無量寿経は 法の真実なるところを ときあらはして 対機はみな権機なり 観無 量寿経は 機の真実なるところを あらはせり これすなはち実機なり いはゆる五障の女人 韋提をも て 対機として とをく末世の 女人悪人に ひとしむるなり 小阿弥陀経は さきの機法の真実をあら はす 二経を合説して 不可以少善根 福徳因縁 得生彼国と等とける 無上大利の名願を 一日七日の  執持名号に むすひとゝめて こゝを証誠する 諸仏の実語を 顕説せり これによりて 世尊説法時将 P--959 了と等 釈{光明寺}しまします 一代の説教 むしろをまきし肝要 いまの弥陀の名願をもて 附属流通の本 意とする条 文にありてみつへし いまの三経をもて 末世造悪の凡機に とききせ 聖道の諸教をもて は その序分とすること 光明寺の処処の御釈に歴然たり こゝをもて 諸仏出世の本意とし 衆生得脱 の本源とする条 あきらかなり いかにいはむや 諸宗出世の本懐とゆるす 法華にをいて いまの浄土 教は 同味の教也 法華の説時 八箇年中に 王宮に五逆発現のあひた このときにあたりて 霊鷲山の 会座を没して 王宮に降臨して 他力をとかれしゆへなり これらみな 海徳以来 乃至釈迦一代の 出 世の元意 弥陀の一教をもて 本とせらるゝ太都也 #216 (16) 一 信のうへの称名の事 聖人{親巒}の御弟子に 高田の覚信房{太郎入道と号す}と いふひとありき 重病をうけて 御坊中にして 獲麟にのそ むとき 聖人{親鸞}入御ありて 危急の体を 御覧せらるるところに 呼吸のいきあらくして すてにたえな むとするに 称名をこたらす ひまなし そのとき 聖人たつね おほせられて のたまはく そのくる しけさに 念仏強盛の条 まつ神妙たり たゝし所存不審 いかんと 覚信房こたへ まふされていはく よろこひすてにちかつけり 存せん事一瞬にせまる 刹那のあひた たりといふとも いきのかよはむほ とは 往生の大益をえたる 仏恩を報謝せすむは あるへからすと 存するについて かくのことく 報 謝のために 称名つかまつるものなりと[云々] このとき上人 年来常随給仕のあひたの提撕 そのしるし P--960 ありけりと 御感のあまり 随喜の御落涙 千行万行なり しかれは わたくしに これをもてこれを案 するに 真宗の肝要 安心の要須 これにあるもの歟 自力の称名をはけみて 臨終のとき はしめて  蓮台にあなうらを むすはむと期するともから 前世の業因しりかたけれは いかなる死の縁かあらん  火にやけ みつにおほれ 刀剣にあたり 乃至寝死まても みなこれ過去の宿因に あらすといふことな し もしかくのことくの死の縁 身にそなへたらは さらにのかるゝこと あるへからす もし怨敵のた めに 害せられは その一刹那に 凡夫として おもふところ 怨結のほか なんそ他念あらん また寝 死にをいては 本心いきのたゆる きはをしらさるうへは 臨終を期する先途 すてにむなしくなりぬへ し いかんしてか 念仏せむ またさきの殺害の機 怨念のほか 他あるへからさるうへは 念仏するに いとまあるへからす 終焉を期する前途 またこれもむなし 仮令かくのこときらの 死の縁にあはむ機  日ころの所存に違せは 往生すへからすと みなおもへり たとひ本願の正機たりといふとも これらの 失 難治不可得なり いはむや もとより自力の称名は 臨終の所期 おもひのことくならん定 辺地の 往生なり いかにいはむや 過去の業縁 のかれかたきによりて これらの障難にあはむ機 涯分の所存 も 達せむこと かたきかなかにかたし そのうへは また懈慢辺地の 往生たにも かなふへからす  これみな 本願にそむくかゆへなり ここをもて 御釈{浄土文類}にのたまはく 憶念弥陀仏本願 自然即時入 必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩とみえたり たゝよく如来の みなを称して 大悲弘誓の恩を  P--961 むくひたてまつるへしと 平生に善知識のをしへをうけて 信心開発するきさみ 正定聚のくらゐに住す と たのみなん機は ふたゝひ 臨終の時分に 往益をまつへきにあらす そののちの称名は 仏恩報謝 の 他力催促の大行たるへき条 文にありて顕然也 これによりて かの御弟子 最後のきさみ 御相承 の眼目 相違なきについて 御感涙を なかさるゝもの也 しるへし #217 (17) 一 凡夫として毎事勇猛のふるまひみな虚仮たる事 愛別離苦にあふて 父母妻子の 別離をかなしむとき 仏法をたもち 念仏する機 いふ甲斐なく なけ きかなしむこと しかるへからすとて かれを はちしめ いさむること 多分先達めきたるともから  みなかくのことし この条 聖道の諸宗を 行学する機の おもひならはしにて 浄土真宗の機教を し らさるものなり まつ凡夫は ことにをいて つたなく をろかなり その&M006218;詐なる性の 実なるをうつ みて 賢善なるよしを もてなすは みな不実虚仮なり たとひ 未来の生処を 弥陀の報土と おもひ さため ともに浄土の再会を うたかひなしと期すとも をくれさきたつ 一旦のかなしみ まとへる凡 夫として なんそこれなからむ なかむつくに 曠劫流転の 世々生々の芳契 今生をもて 輪転の結句 とし 愛執愛着のかりのやと この人界の火宅 出離の旧里たるへきあひた 依正二報ともに いかてか なこりおしからさらん これをおもはすむは 凡衆の摂に あらさるへし けなりけならんこそ あやま て 自力聖道の機たる歟 いまの浄土他力の機に あらさる歟とも うたかひつへけれ をろかにつたな P--962 けにして なけきかなしまむこと 他力往生の機に 相応たるへし うちまかせての 凡夫のありさまに  かはりめあるへからす 往生の一大事をは 如来にまかせたてまつり 今生の身のふるまひ 心のむけや う 口にいふこと 貪瞋痴の三毒を根として 殺生等の十悪 穢身のあらんほとは たちかたく 伏しか たきによりて これをはなるること あるへからされは なか〜 をろかにつたなけなる 煩悩成就の 凡夫にて たゝありにかさるところなき すかたにて はむへらんこそ 浄土真宗の 本願の正機たるへ けれと まさしく おほせありき されは つねのひとは 妻子眷属の 愛執ふかきをは 臨終のきはに は ちかつけし みせしと ひきさくるならひ也 それといふは 着想にひかれて 悪道に堕せしめさら むかためなり この条自力聖道の つねのこゝろ也 他力真宗には この義あるへからす そのゆへは  いかに境界を 絶離すといふとも たもつところの 他力の仏法なくは なにをもてか 生死を出離せん  たとひ妄愛の迷心 深重也といふとも もとより かゝる機を むねと摂持せむと いてたちて これか ために まうけられたる 本願なるによりて 至極大罪の 五逆謗法等の無間の業因を をもしとしまし まさゝれは まして愛別離苦に たへさる悲嘆に さえらるへからす 浄土往生の信心 成就したらんに つけても このたひか 輪廻生死の はてなれは なけきも かなしみも もとも ふかゝるへきについ て あとまくらに ならひゐて 悲歎嗚咽し ひたりみきに 群集して 恋慕涕泣すとも さらに それ によるへからす さなからむこそ 凡夫けもなくて 殆他力往生の機には 不相応なるかやとも きらは P--963 れつへけれ されは みたからむ境界をも はゝかるへからす なけきかなしまむをも いさむへからす と[云々] #218 (18) 一 別離等の苦にあふて悲歎せむやからをは仏法のくすりをすゝめてそのおもひを教誘すへき事 人間の八苦のなかに さきにいふところの 愛別離苦 これもとも切なり まつ生死界の すみはつへか らさる ことはりをのへて つきに安養界の 常住なるありさまをときて うれへなけくはかりにて う れへなけかぬ 浄土を ねかはすんは 未来もまたかゝる 悲歎にあふへし しかし唯聞愁歎声の 六道 にわかれて 入彼涅槃城の 弥陀の浄土に まうてんにはと こしらへおもむけは 闇冥の悲歎 やう やくにはれて 摂取の光益に なとか帰せさらん つきにかゝるやからには かなしみに かなしみを  そふるやうには ゆめ〜 とふらふへからす もししからは とふらひたるにはあらて いよ〜 わ ひしめたるにてあるへし 酒はこれ忘憂の名あり これをすゝめて わらふほとに なくさめてさるへし  さてこそ とふらひたるにてあれと おほせありき しるへし #219 (19) 一 如来の本願はもと凡夫のためにして聖人のためにあらさる事 本願寺の聖人 黒谷の先徳より 御相承とて 如信上人おほせられていはく 世のひと つねにおもへら く 悪人なをもて往生す いはむや善人をやと この事 とをくは 弥陀の本願にそむき ちかくは 釈 尊出世の金言に違せり そのゆへは 五劫思惟の劬労 六度万行の堪忍 しかしなから 凡夫出要のため P--964 なり またく聖人のためにあらす しかれは 凡夫本願に乗して報土に往生すへき正機なり 凡夫もし往 生かたかるへくは 願虚設なるへし 力徒然なるへし しかるに 願力あひ加して 十方のために 大饒 益を成す これによりて 正覚をとなへて いまに十劫也 これを証する 恒沙諸仏の証誠 あに無虚妄 の説にあらすや しかれは 御釈にも 一切善悪凡夫得生者と等 のたまへり これも悪凡夫を本として  善凡夫をかたわらにかねたり かるかゆへに 傍機たる善凡夫 なを往生せは もはら正機たる悪凡夫  いかてか往生せさらん しかれは 善人なをもて往生す いかにいはむや 悪人をやといふへしと おほ せことありき #220 (20) 一 つみは五逆謗法むまるとしりてしかも小罪もつくるへからすといふ事 おなしき聖人の おほせとて 先師信上人の おほせにいはく 世の人 つねにおもへらく 小罪なりと も つみをおそれおもひて とゝめはやと おもはは こゝろにまかせてとゝめられ 善根は 修し行せ むとおもはは たくはへられて これをもて 大益をもえ 出離の方法とも なりぬへしと この条 真 宗の肝要にそむき 先哲の口授に違せり まつ逆罪等を つくること またく諸宗のをきて 仏法の本意 にあらす しかれとも 悪業の凡夫 過去の業因にひかれて これらの重罪ををかす これとゝめかたく  伏しかたし また小罪なりとも をかすへからすといへは 凡夫こゝろにまかせて つみをは とゝめえ つへしときこゆ しかれとも もとより 罪体の凡夫 大小を論せす 三業みなつみにあらすといふこと P--965 なし しかるに 小罪もをかすへからすといへは あやまても をかさは 往生すへからさるなりと 落 居する歟 この条 もとも思択すへし これもし抑止門のこゝろ歟 抑止は 釈尊の方便なり 真宗の落 居は 弥陀の本願にきわまる しかれは 小罪も大罪も つみの沙汰をしたゝは とゝめてこそ その詮 はあれ とゝめえつへくもなき 凡慮をもちなから かくのことくいへは 弥陀の本願に 帰託する機  いかてかあらん 謗法罪は また仏法を信する こゝろの なきよりおこるものなれは もとより その うつわものにあらす もし改悔せは むまるへきものなり しかれは 謗法闡提廻心皆往と釈せらるゝ  このゆへなり #221 (21) 一 一念にてたりぬとしりて多念をはけむへしといふ事 このこと 多念も一念も ともに本願の文なり いわゆる 上尽一形下至一念と等 釈せらる これその 文なり しかれとも 下至一念は 本願をたもつ 往生決定の時尅なり 上尽一形は 往生即得のうへの  仏恩報謝の つとめなり そのこゝろ 経釈顕然なるを 一念も多念も ともに往生のための 正因たる やうに こゝろえみたす条 すこふる 経釈に違せるもの歟 されは いくたひも 先達より うけたま はり つたへしかことくに 他力の信をは 一念に即得往生と とりさためて そのとき いのちをはら さらん機は いのちあらむほとは 念仏すへし これすなわち 上尽一形の釈に かなへり しかるに  世の人 つねにおもへらく 上尽一形の多念も 宗の本意とおもひて それにかなはさらん機の すてか P--966 てらの一念と こゝろうる歟 これすてに 弥陀の本願に違し 釈尊の言説にそむけり そのゆへは 如 来の大悲 短命の根機を 本としたまへり もし多念をもて 本願とせは いのち一刹那につゝまる 無 常迅速の機 いかてか 本願に乗すへきや されは 真宗の肝要 一念往生をもて 淵源とす そのゆへ は 願成就の文には 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転ととき おなしき 経の流通には 其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功徳と も 弥勒に付属したまへり しかのみならす 光明寺の御釈には 爾時聞一念 皆当得生彼とらみえたり これらの文証 みな無常の根機を 本とするゆへに 一念をもて 往生治定の時剋と さためて いのち のふれは 自然と多念に をよふ道理を あかせり されは 平生のとき 一念往生治定のうへの 仏恩 報謝の 多念の称名と ならふところ 文証道理顕然なり もし多念をもて 本願としたまはは 多念の きわまり いつれのときと さたむへきそや いのちをはるときなるへくむは 凡夫に 死の縁まち〜 なり 火にやけても死し みつになかれても死し 乃至刀剣にあたりても死し ねふりのうちにも死せん  これみな 先業の所感 さらにのかるへからす しかるに もしかゝる業ありて をはらむ機 多念のを はりそと 期するところ たちろかすして そのときかさねて 十念を成し 来迎引接にあつからんこと  機として たとひかねて あらますといふとも 願として かならす迎接あらんこと おほきに不定なり  されは第十九の願文にも 現其人前者のうへに 仮令不与とら をかれたり 仮令の二字をは たといと P--967 よむへきなり たとひといふは あらまし也 非本願たる諸行を修して 往生を係求する行人をも 仏の 大慈大悲 御覧しはなたすして 修諸功徳のなかの 称名をよところとして 現しつへくは その人のま へに 現せむとなり 不定のあひた 仮令の二字ををかる もしさもありぬへくはと いへるこゝろなり  まつ不定の失のなかに 大段自力のくわたて 本願にそむき 仏智に違すへし 自力のくわたてといふは  われとはからふところを きらふなり つきには またさきにいふところの あまたの業因 身にそなへ んこと かたかるへからす 他力の仏智をこそ 諸邪業繋無能礙者とみえたれは さまたくるものもなけ れ われとはからふ往生をは 凡夫自力の迷心なれは 過去の業因 身にそなへたらは 豈自力の往生を  障礙せさらんや されは 多念の功をもて 臨終を期し 来迎をたのむ 自力往生のくわたてには 加様 の不可の難とも おほきなり されは 紀典のことはにも 千里は足の下よりおこり 高山は微塵にはし まるといへり 一念は多念のはしめたり 多念は一念のつもりたり ともにもて あひはなれすといへと も おもてとし うらとなるところを 人みなまきらかすもの歟 いまのこゝろは 一念無上の仏智をも て 凡夫往生の極促とし 一形憶念の名願をもて 仏恩報尽の経営とすへしと つたふるものなり #1口伝鈔   [元弘第一之暦{辛未}仲冬下旬之候相当祖師聖人{本願寺親―鸞}報恩謝徳之七日七夜勤行中談話先師上人[釈如信]面授口決之専心専修別   発願之次所奉伝持之祖師聖人之御己証所奉相承之他力真宗之肝要以予口筆令記之是往生浄土之券契濁世末代之目足也 P--968   故広為湿後昆遠利衆類也 雖然於此書者守機可許之無左右不可令披閲者也 非宿善開発之器者痴鈍之輩定翻誹謗之脣歟   然者恐可令沈没生死海之故也 深納箱底輙莫出&M041329;而已]                                           [釈宗昭]   [先年如斯註記之訖而慮外干今存命仍染老筆所写之也 姓弥朦朧身又羸劣雖不堪右筆残留斯書於遺跡者若披見之人往生浄   土之信心開発歟之間 不顧窮屈於灯下馳筆畢矣]     [康永三歳{甲申}九月十二日相当亡父尊霊御月忌故終写功畢]                                         [釈宗昭]{七十五}     [同年十月廿六日夜於灯下付仮名訖]